香港では、2019年の民主化デモ以降、国家安全維持法(NSL)の施行によって社会の空気が大きく変化した。かつての自由な言論空間は姿を消し、今では市民同士が互いを監視し、通報する“新しい日常”が広がっている。そんな中、元銀行員のイネス・タン氏は、自らを「愛国者」と称し、数多くの市民を警察に通報してきた人物だ。
「私たちは社会の隅々にいて、国家安全に関わる疑わしい行動がないかを常に見ています。見つけたら、警察に報告するんです」と語るタン氏。彼の通報対象には、イギリス植民地時代の旗を振る女性や、抗議の象徴が描かれたケーキを販売していたベーカリーのスタッフなど、日常の中の些細な行動も含まれる。
中国が香港に国家安全維持法を導入したのは2020年。これは「国家からの分離」「政権転覆」「外国勢力との結託」などを犯罪として定めた法律だ。さらに2023年には追加で「23条立法」が可決され、監視と規制の枠組みが一層強化された。
こうした中、タン氏はSNSの投稿をスクリーンショットで記録し、通報用のホットラインも開設。彼のオンラインフォロワーにも、身近な人の情報提供を促している。これまでに通報した個人や団体の数は100件近くに及ぶという。「通報は効果があるからやっている。実際、警察が調査を始めたケースも多く、逮捕や実刑判決に至った例もある」と話す。
しかし、このような「愛国的行動」が社会に与える影響は大きい。独立系書店を経営するポン・ヤットミン氏は、匿名の通報により、わずか15日間で10回もの当局による抜き打ち検査を受けた。また、民主化運動に関わってきた政治学者のケネス・チャン氏も「友人や学生たちが自分を避けるようになった」と語り、政治的発言が孤立を招く現状に危機感を抱いている。
一方、タン氏は自らの行動を「地域社会と警察の健全な協力」と位置付け、「2019年の混乱の反動として、社会にバランスを取り戻すための行動だ」と主張する。かつてイギリス植民地時代に社会的不平等を感じていた彼にとって、中国との一体化は希望でもあった。「民主主義や自由は当時の私たちには抽象的で理解しがたい概念だった」と振り返る。
現在、香港政府は「学問の自由や制度の自律性を重視する」と述べているが、同時に教育機関には「法律に則った運営」を求めており、実質的な自己検閲が広がっている。2021年の選挙制度改革以降は、共産党に忠誠を誓う「愛国者」のみが公職に就ける制度となり、立法会でも反対勢力の不在が目立つ。「誰も政策に反対しない状態は健全ではない」とタン氏自身も警鐘を鳴らしている。
現在、彼は香港での通報活動を停止し、スイスに拠点を移してメディア企業の設立を目指している。また、国連で中国の立場を代弁する非営利団体の代表としても活動中だ。
一方で、香港に残された人々にとっては不安な日々が続く。チャン氏は「友人の3分の1は亡命、もう3分の1は拘束中。私は宙ぶらりんの状態だ」と語り、「今日こうして自由に話しているが、明日も同じとは限らない」と述べている。
国家安全維持法がもたらした“新しい香港”。それは、誰が味方で誰が敵かが分からない、息苦しい監視社会の姿でもある。














