ベトナム南部メコンデルタの中心都市であるカントー市では、長年にわたり慢性的な洪水が市民生活と経済活動を縛り続けてきた。低地に位置する市街地では、月に二度の高潮のたびに河川が急激に増水し、わずか1時間足らずで住宅や道路が冠水することも珍しくなかった。住民は浸水が引くまで外出もできず、医療や買い物といった日常行動すら半日以上制限される状況が続いていた。洪水は水だけでなく、ゴミや死魚、悪臭をもたらし、生活環境と公衆衛生の両面に深刻な影響を与えていたのである。
この問題は単なる自然災害ではなく、年間約3億米ドルの経済損失を生む構造的な都市リスクとなっていた。メコンデルタは世界でも海面上昇の影響を最も受けやすい地域の一つとされ、気候変動による脅威は年々現実味を増している。こうした背景のもと、2016年から2024年にかけて実施された「カントー都市開発・レジリエンスプロジェクト」は、洪水対策を都市の将来像そのものと結びつける包括的な取り組みとして進められた。
このプロジェクトは世界銀行からの2億5,000万ドルの融資を受け、カントー川およびカイ・ルオン川沿いに大規模な防潮・排水システムを構築した。潮止め水門、船舶用ロック、運河改修、河川堤防の強化に加え、道路のかさ上げを組み合わせることで、市街中心部約2,700ヘクタールを囲む「環状堤防」が形成された。2023年10月、例年であれば市内が冠水する時期に川が増水したが、新設された水門が機能し、市街地への浸水は防がれた。この出来事は、長年洪水に悩まされてきた住民にとって大きな転換点となった。
さらにプロジェクトは、洪水を抑え込むだけでなく、都市構造そのものを見直す視点を取り入れている。浸水しやすい中心部の負担を軽減するため、比較的安全な南部地域との接続性を高める必要があると判断され、クアンチュン橋とチャン・ホアン・ナ橋という二つの大型橋梁が建設された。これにより、かつて移動に1時間以上かかり事故も多発していた河川横断が大幅に改善され、南岸地域では住宅開発や商業活動が活発化し始めている。
経済面では、洪水による営業停止や資産損失が減少し、事業者の安定性が向上した。衛生面でも、汚染水による健康リスクが抑えられたことは大きい。また堤防の一部は公園や歩行者空間として整備され、防災インフラが都市の景観と生活の質向上にも寄与している。現在、中心市街地では季節的な浸水が大幅に減少し、42万人以上の住民が雨季でも浸水を免れている。
この事業の特徴は、物理的なインフラ整備にとどまらず、デジタル技術を本格的に導入した点にもある。スイス経済省の1,000万ドルの助成を受け、洪水リスク管理情報システムが構築された。市内の浸水多発地点60か所に設置されたセンサーからのデータは、中央管制センターに集約され、遠隔操作による水門制御や、過去データと気象予測を用いたシミュレーションに活用されている。これにより、洪水を事前に予測し、迅速に対応する体制が整った。
加えて、都市計画、災害対応、公共サービスの情報を統合する空間計画プラットフォームも整備され、災害時には社会的弱者を迅速に支援する仕組みも組み込まれている。こうした「人を中心に据えた」設計は、気候変動への適応と社会的包摂を同時に進めるモデルとして高く評価されている。
もっとも、この防災網がカバーするのは市全体の一部にすぎず、今後も維持管理、人材育成、追加投資が不可欠である。それでも今回のプロジェクトは、気候変動という長期的課題に対し、都市がどのように備え、成長と共存していくかを示す重要な一歩となった。洪水に支配されていた日常を取り戻しつつあるカントー市は、今後のメコンデルタ地域における都市レジリエンスの試金石となっていくだろう。













